木漏れ日を掴むことはできないけれど、
掴もうとしたその手の動きは覚えている。
暮らしを言葉で形作ることはできないけれど、
お布団の柔らかさは覚えている。
その感覚はいつまでもぬるく、そこに座っている。
ぼんやりと足先を照らしてくれる、そんな暮らしの中の「あわいともしび」のような瞬間を書き留めた実験的暮らしのエッセイを月一くらいの定期更新でお届けします。
「流れ星をみたよる」
4月に入って私の生活は一変した。これまでは避けていたようなツルピカな場所で、新しい人々と出会い、新しい会話をする。「初めまして」なのだから、世界の内側ではなく外側を撫で合うような会話が仕切りに発生する。
そりゃそうだ、初対面で一緒に裸になって踊ろう!なんて伝えたら、びっくりされてしまう。マナー違反ってやつだ。そんなことよりも、そのカチューシャかわいいね、どこで買ったの?と質問する方がいい。
けれども私はこの滑らかな「雑談」みたいなものがどうも苦手で、会話が続かない。それでも、地面を這うように自分のペースで話しかけたり、応答したりして、なんとか息をしている!
一緒に裸で踊り合うような関係性になるためには、優しく世界の外側を撫でるような雑談ははじめの一歩として必須項目なのに、私はというと亀みたいな雑談ペースである。それでも、ロマンチストであることは変わらなくて、いつかあなたと世界が重なりますように、と願っている節がある。
世界が重なるということには本当に時間がかかるだろうけれど、ピースがはまって1つのパズルが完成したときの、その煌めく光景を諦めきれない自分がいる。その光景の断片を少しずつ集めて、お守りみたいに宝箱にしまっておいて、たまに見て思い出す。
もう1人の自分が、「言葉」にするからパズルが完成しないんだよ、と右耳の奥から囁いてくるけれど、私は亀なのでゆっくり歩きますと突き飛ばす。
プールで息継ぎの練習をするような毎日を送っていると、自分の世界を灯していた電灯が一つずつ消えていく。暗くなるにつれて、自分のちっぽけさを、地球が、ひとが、植物が、建物が、光が、黙って伝えてくる。
私にはそんな時にふと会いたくなってしまう友人がいる。美味しい酸素みたいな人。
彼女と、屋上に布団を敷いてコロコロしてた夜の2時。5月上旬の夜はまだ肌寒くて、羽毛布団がちょうどいい。横になると、広くて暗い空がこちらを見つめて、静かに呼吸している。美術館で1枚の大きな絵画を椅子に座って見つめているときと、こころの形が似ている気がする。
帰路につく酔っ払いの陽気なおしゃべりがするすると耳を抜ける。コンタクトはもう要らないと思って、取り外してそこら辺に置いておく。目の前のことをよくみるためにはとっても大事なコンタクトだけれど、私の目にこびりついた薄皮が1枚剥がれ落ちると、途端に肩の荷が降りる気もする。
「見て!UFOだよ!指の先だよ!」
「どこ!」
「流れ星とか見えたらいいのに!」
とか言って、友人とケラケラ笑っていたら、
本当に星が流れた。
一瞬の沈黙のあと、
「本当に流れ星見ちゃったね」
とぼやいて、また友人とケラケラ笑った。
お願い事なんてする余裕はなかった。
忘れっぽい私だけれど、その夜のことはよく覚えている。
もうそこにはいない光の余韻に、共に浸かれる仲間がこの世界にいると思うと、明日は多分来るんだろうなと信じることができる。
遠くから見つめてはじめて見えるもの。
遠い時間の先にはじめて見えるもの。
私は2センチ先で同じ星を見つめる友人のなかをぼやぼやと浮かぶ遠い光を見つめている気がする。
もしも美しい星が目に映らない夜が来てしまったら、眼科に行ってお医者さんに相談したい、コンタクトはもうやめたいです。
我慢して心がキュッとなる瞬間、私は結構好きなんですよね。腐敗菌のように、誰かに怪しがられて、誰かに丸め込まれて、知らぬ間に雪だるまになってる自分も、結構好きなんですよね。
これまで丸め込まれてきた誰かの悔しさを同じように感じて、同じように誰かに化けて、冷たい雪で覆われた雪だるまな私の中ではぐつぐつと心が煮えている。だけれど、知らぬ間にぐつぐつ鍋が愛に変わっていたりする。
私は物事を判別しながら簡潔に話すということがどうも苦手で、ガラクタみたいなものも、夕焼けみたいなものも、宝石みたいなものも、同じ宝箱の中で今日も眠っている。そんな言い訳は置いといて、とにかく、まとまらないエッセイですが、まとまってしまったら全てが終わってしまう気もするので、まとまらなくて安心しました。それでも朝は来て、花は咲き、枯れて、また咲きます。
また、お会いできたら嬉しいです。
文・写真 nagon(https://www.instagram.com/nagon_modamodels/?hl=ja)